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津地方裁判所 昭和47年(ワ)19号 判決 1977年3月24日

原告 矢賀 止 ほか九名

被告 国 ほか一名

訴訟代理人 榎本恒男 小久保雅弘 江尻寿夫 木村三春 島井不二雄

主文

一  被告らは、各自、原告矢賀止に対し金九一八万三、一五七円を、原告矢賀ふて子に対し金五九〇万三、四四五円を、原告矢賀つるゑに対し金一、〇九七万七、二三七円を、原告矢賀弘次、原告矢賀政利に対し各金一、〇八六万七、二三七円を、原告矢賀幸に対し金五四五万六、二〇四円を、原告矢賀みつ子に対し金八八万円を、原告森下憲夫に対し金三五五万五、七八七円を、原告森下徳太郎に対し金七三万六、六三三円を原告矢賀重治に対し金一七四万七、一五二円を各支払え。

二  原告らのその余の請求を棄却する。

三  訴訟費用はこれを三分し、その一を原告らの、その余を被告らの負担とする。

四  この判決は主文第一項に限り仮に執行することができる。但し、被告らにおいて、原告矢賀止に対し金一八〇万円、原告矢賀ふて子に対し金一一八万円、原告矢賀つるゑに対し金二一九万円、原告矢賀弘次、同矢賀政利に対し各金二一七万円、原告矢賀幸に対し金一〇九万円、原告矢賀みつ子に対し金一七万円、原告森下憲夫に対し金七一万円、原告森下徳太郎に対し金一四万円、原告矢賀重治に対し金三四万円の各担保を供するときは、右仮執行を免れることができる。

事  実 <省略>

理由

一  事故の発生

昭和四六年九月一〇日午後四時五分ごろ、三重県熊野市波田須町字寺の上四五四番地先国道三一一号線の路体が幅約三九メートルにわたつて決壊し土石が崩落したこと、右日時ころ右決壊地点より南東(太平洋側)に向つて約一〇〇メートル下方に所在していた原告矢賀止、同矢賀幸、同森下憲夫、同矢賀重治および訴外矢賀廣治各所有の家屋が倒壊したことは当事者間に争いがなく、<証拠省略>によれば、右日時ころ訴外矢賀文哉(原告矢賀止、同矢賀ふて子の長男)が頭部陥没全身打撲により、訴外矢賀廣治(原告矢賀つるゑ、同矢賀弘次、同矢賀政利の父)が内臓破裂、頭部圧迫、全身骨折により、訴外矢賀あや子(右原告矢賀つるゑら三名の母)が後頭部挫創脳挫創により、訴外矢賀あき子(原告矢賀つるゑの妹、原告矢賀弘次、同矢賀政利の姉)が窒息によりいずれも死亡し(右各訴外人が死亡したことは当事者間に争いがない。)原告矢賀みつ子が頭部外傷-型全身打撲の傷害を受け、頭部外傷後遺症をのこすに至つたことが認められ、これに反する証拠はない。

なお、右家屋倒壊、死亡、傷害等が前記国道の路体の決壊と因果関係があるか否かの点は後述する。

二  被告らの責任

1  本件国道および本件崩壊現場付近の状況

(一)  本件国道が三重県尾鷲市より和歌山県西牟婁郡上富田町に至る間の路線であつて、そのうち三重県熊野市波田須町地内の個所は、昭和二五年一一月建設工事に着工し、昭和二六年三月完成したものであつて、当初三重県として発足したのであるが、昭和四五年四月一日付で一般国道として昇格したものであり、被告国の営造物であつて、被告国の機関としての三重県知事がこれを管理し、その管理事務が被告国の事務とされており、その管理に要する費用を被告三重県が負担していること、本件国道がいわゆる山岳道路であつて、山腹を縫つている幅員六メートル前後の舗装された道路であり、本件崩落発生現場より南東(太平洋側)に向つて約一〇〇メートル下方に本件の被災した矢賀部落が存在し、その中間には地形の起伏や障害物が存在しない(事故前には樹木が植栽されていた。)ことは当事者間に争いがない。

(二)  右当事者間に争いのない事実に<証拠省略>と弁論の全趣旨を総合すれば、次の事実が認められる。

(1) 本件崩壊現場付近はほぼ南側に熊野灘をのぞむ山岳地帯で、山間部が急斜面で直接海に迫つている状態であり南側(海側)約一〇〇メートル下方の地点に前記被災した矢賀部落がリヤス式海岸の続いている中の入江の平坦部を利用し、山間部を背に存在しており、本件国道は右矢賀部落の北側上方をほぼ東西に走つている状況で、右国道から矢賀部落に至る斜面(道路法面)は約四五ないし五一度の勾配の急傾斜をなし、その間には樹木が植栽されていたほか地形の起伏や障害物が存在していなかつた。従つて、本件国道の路体等が崩壊して土石流等が流出すれば一気に矢賀部落にまで到達するような状態であつた。

(2) 本件国道のうち本件崩壊現場付近一帯の部分は、昭和二五年一一月三重県道として建設に着工し、翌二六年三月完成したもので、上部が風化された岩質(一部は花崗岩)の小尾根の間の約二五ないし三〇度の勾配をなす自然斜面の谷筋を谷頭を僅かに残す状態でほぼ東西方向に横断する形に造成されており、段切りはなされず、付近の掘削土であるマサ土(花崗岩の風化土)約五メートル厚が原地盤に直接盛土され、その上部に切込み砂利一〇センチメートル厚が敷かれ、更に上部に二・五センチメートル厚の合材が敷かれ、盛土の転圧作業はなされなかつた。道路の幅員は約六メートルで東方から西方に約三から四パーセントのゆるい下り勾配となつており、道路北側(山側)には底幅約三〇センチメートル、上幅約七〇センチメートル、深さ約三〇センチメートルの素掘側溝が築造されたが、道路南側(海側)には側溝は築造されなかつた。道路南側の法面は約二八メートルと長大になるので勾配を一割とし、途中幅約一メートルの小段を設け、法面保護工として付近の転石(雑石、直径約三〇センチメートルないし四五センチメートル位)を利用した法長約二八メートルの空石張(石土羽)を施行し、右石垣は木材を基礎にして石積みされており、右石垣を裏から固定するための「かい石」を入れた程度で、裏どめに栗石等は入れられていない。次に、本件道路の原地盤、盛土の土質等をみると、鉱物組成は、石英、長石、イライト、雲母、カリオン系粘土からなる砂質土で、完全に粘土化が進行しておらず、風化度も著しくはなく、粒度は三角座標分類では砂質ロームにあたり、液性限界(土の含水量がある上限値以上になると、土は流動に対する抵抗性を失つて全く液状化する。この値を液性限界という。)は平均三四パーセントで、透水性は比較的大きく、盛土の締固状態は良好であつた。なお、排水施設として盛土を横断する排水管や盲暗渠(地下排水溝)は設けられなかつた。次いで昭和四三年ころ防塵処理のための路面舗装工事として本件道路の表面に一三センチメートル厚のアスフアルトが敷かれた。

その後本件事故当時に至るまで特段の改良、改善工事はなされず、本件事故発生当時、右崩壊現場付近道路の前記素掘側溝は既に埋没して溝としての形体をとどめておらず、側溝としての機能を果していなかつた。

(3) 本件崩壊現場付近の状況をみると、別紙図面<省略>のとおり、本件崩壊現場付近道路の北側は小高い山となつており、数メートル上方を本件国道にほぼ平行に細い山道が東西に走つており、右山道の上方には杉などの樹木が繁り、下方には雑木、雑草が繁つている。右北側の山は、本件崩壊現場をはさんで東方及び西方にほぼ南北の方向に走る尾根状の線があり、本件崩壊現場道路近くに至つていて、右尾根状の二線の内部の斜面はなだらかな沢の状態となつて本件崩壊現場道路に接続している。右の沢は非活動河川となつており、流域面積は約五、二〇〇平方メートルである。本件崩壊現場道路と右北側の山との間には約一八〇平方メートル位(長径約五〇メートル、短径約一〇メートル位の不定形なだ円形部分)のほぼ平坦な空地(窪地、私有地)があり、本件道路面より一段低くなつていて(中央部が最も低く、約七〇センチメートル位低い。)、雑草等が生えており、大雨のときなどは前記流域面積の雨水が貯留、停滞するので、昭和四五年一〇月ころ土建業を営む久保幹夫が矢賀部落の当時の区長訴外矢賀貞雄の依頼により熊野市建設課の了解のもとに右空地(窪地)に土と石の混ざつた残土を捨てて右空地(窪地)を埋めた。右久保は舗装路面の北側にある幅約七〇ないし八〇センチメートルの路肩より約一メートル五〇センチメートル北側部分に高き約一メートルに残土を捨てて右空地(窪地)を埋めた。その後、訴外若松組が同じ場所に残土を捨て、結局路面より約八〇センチメートル位高くなり、右久保がブルドーザーなどでこれをならして、路面より約一五センチ位低い路肩と同じ位の高にした。

(4) 本件崩壊現場道路南側の空石積擁壁付近から矢賀部落までの斜面は矢賀地区所有の土地となつており、杉の木が植林され、畑が作られていたが、昭和四四年四月から六月までの間に訴外熊野市が矢賀部落の依頼により本件崩壊現場道路南側の右斜面に矢賀部落へと通じる農道を築造して、谷筋中間に右のような突起物を設けた。右農道は、別紙図面<省略>のとおり、本件崩壊現場道路やや西側の本件国道端から南西方へ下り、西方へと向つた後約一八〇度方向転換して東方へと向つて下り(第一のヘアピンカーブ)、空石積擁壁の下方を通つて東方へ向つた後約一八〇度方向転換して西方へと向つて下り(第二のヘアピンカーブ)、矢賀部落の方へと通じていた。右農道は、前記斜面を掘削し、大部は盛土したうえ、防塵のためのコンクリート舗装をし、又岩土羽工を施したものであつた。

(5) 本件事故当時、右農道の上部には高さ二・五メートル位の杉が植えられ、農道の下部は竹やぶ(高いもので高さ約一五メートル位)となつていた。又、前記空石積擁壁の石垣の間には雑草、松、樫などの雑木が繁茂し、右雑木の中には直径約一〇センチメートルから三〇センチメートル位になるものもあつた。

2  本件事故発生状況、その前後の状況

(一)  <証拠省略>によれば、次の事実が認められる。

(1) 本件事故に先立つ昭和四六年八月二九日から三一日にかけて日本南岸に沿つて台風二三号が通過(上陸)し、三重県尾鷲、熊野両市地方に豪雨をもたらし、本件現場から約四キロメートル西方の熊野市木本町では二九日に二〇・五ミリメートル、三〇日に二二七・五ミリメートル、三一日に〇・五ミリメートル(三重県熊野土木事務所の観測資料による。以下同じ)の雨が降り、その後同年九月二日に右木本町で三・五ミリメートル、四日に一〇ミリメートル、六日に四一ミリメートル、七日に一ミリメートル、八日に二二ミリメートルの降雨を経て、九日に至つた。

(2) 九日、一〇日の本件降雨は、本州南岸ぞいに東進した低気圧により三重県南部にもたらされた大雨であり、この大雨は尾鷲、熊野両市を中心とした海岸地方に集中した。九日早朝から降り出した雨は、低気圧が紀伊半島南方海上に達した午前八時ごろから三重県南部地方で急に強まり、寒気の南下と相まつて、昼過ぎごろにかけ、前記木本町では一時間約二〇ミリメートル前後、時間最大雨量二九ミリメートルの強雨が続き、本件現場から約一一キロメートル東方の尾鷲市三木里町では一時間に約四〇ミリメートル前後、最大雨量五〇ミリメートル(三重県尾鷲土木事務所輪内出張所観測資料による。)の強雨が続き、低気圧の南方海上通過とともに小康状態となつたが、翌一〇日昼頃から南岸沿いに停滞していた前線が急に北上し、その活動も次第に活発となり、この前線上を熱低(熱帯低気圧)が四国南岸から紀伊半島に接近したため、再び強い雨が降り出し、右木本町では一時間に三〇ミリメートルから四〇ミリメートル前後、時間最大雨量四二ミリメートル、右三木里町では五〇ミリメートルから九〇ミリメートル前後、最大雨量九四ミリメートルの集中豪雨となり、九日午前六時から本件事故発生直前の一〇日午後四時までの累計では木本町で約三〇六ミリメートル、三木里町では約六七一ミリメートルの豪雨となつた。雨は翌一一日になつてやんだが、右豪雨は尾鷲、熊野地方各地に被害をもたらし、その災害は国道三一一号線沿いに集中し、一〇日午後から夜半にかけて谷川や沢で山くずれが多数発生して鉄砲水とともに大規模な土石流となつて人家を襲い、多数の人命を奪つた。その被害個所は一〇〇か所以上に達し、熊野、波田須間では十数か所の山くずれ、がけくずれが発生した。三重県警本部が九月一七日午前九時現在でまとめたところによると、尾鷲、熊野署管内で死者四二人、負傷者三九人、建物全壊五九棟、半壊二四棟、流失一一棟、道路損壊二四箇所等となつている。三重県南部地方は有名な多雨地域で、過去においては例えば昭和三四年九月二六日前後の伊勢湾台風に伴う豪雨(気象庁尾鷲測候所の観測資料によれば、二三日から二六日の累計で六七九・五ミリメートル)とか、昭和四三年九月二六日前後の第三宮古島台風に伴う豪雨(同じ尾鷲測候所の資料によれば二五日から二七日の累計で一、四四七ミリメートル、前記熊野土木事務所の資料で同期間に六〇四・七ミリメートル)とかの本件降雨を上廻る記録もあるが、災害殊に人的被害については、大雨によるものとしては始めてといつていい程のものであつた。

以上の事実を認めることができ、本件崩壊現場の波田須地区の気象、雨量等を直接に示す資料はないが、前記木本町、三木里町又は尾鷲市との地理的関係、距離関係から考えれば、本件事故現場においても右認定したところとほぼ同程度の降雨があつたものと考えられる。

(二)  そして、右認定事実と<証拠省略>を総合すれば、次の事実が認められる。

(1) 本件崩壊現場付近も、前記認定のように、昭和四六年八月二九日ころからの降雨を経たのち同年九月九日、一〇日の集中豪雨に見舞われ、一〇日昼ごろから雨脚はいつそう激しくなり、地元の熊野市消防団員が出て波田須地区をパトロールするなどしたが、一〇日午後三時ごろ、本件崩壊現場付近は水びたしとなつていて、北側の山や道路東方から水が本件現場付近道路へ流れ込み、道路両側に側溝がなく、前記北側の山に接する空地部分約一八〇平方メートルの中央から西側端にかけては雑草が繁茂していたため、水が低地となつていた右空地(窪地)部分にたまり、そこから西方へはあまり流れず、道路を横断して前記空石積擁壁の方へと流れ落ちていた。右消防団員は、スコツプで右雑草につまつているごみを取りのけたり、草をむしつたりして、水はけをよくしたが、前記水の流れにさほど変化はなかつた。右消防団員は、前記八月二九日、三〇日の大雨の際もパトロールしたが、本件現場付近は右と同じような状況を呈していた。

(2) 九月一〇日午後四時少し前ころ矢賀部落の訴外矢賀鶴一は、同訴外人居宅にある便所へ水が入りかけたので同居宅から外へ出ると敷地の庭に大きな穴があいており、鉄砲水が矢賀部落の北端の高地で最も本件現場近くに所在する原告矢賀幸宅の納屋のあたりを経て、その南西側下方に所在する原告森下憲夫の居宅(原告森下徳太郎居住)あたりを通り、その南東側下方に所在する右訴外人宅の方へと流れ、水深約二〇センチメートル位の水位となつていた。同訴外人が右の穴を埋めていたとき、本件崩壊現場道路の南側法面(空石積擁壁の上部)の東側部分が海津波のような音とともに砂ぼこり状のものと一緒に大きな波が押し寄せてくるように一瞬のうちに崩れた。次いで前記矢賀幸宅が倒壊し、前記森下憲夫宅、その南側下方に所在する訴外亡矢賀廣治宅、その南側下方に所在する原告矢賀重治宅、その南側下方に所在する原告矢賀止宅がそれぞれ倒壊した。右矢賀廣治宅付近で土砂は約一メートル前後たい積して同人宅を埋めた。原告矢賀幸宅にいた原告矢賀みつ子は、ものすごい音がしたので放り出されるように外へ出たが、倒壊した右家屋に押しつぶされて身動きの取れないような状態になり、訴所亡矢賀あや子は右倒壊した矢賀廣治宅の下に埋まり、事故後死体で発見され、右矢賀廣治も事故後死体で発見され、原告矢賀止は、ごおつという音とともに同原告宅に土が飛んできたので外へ飛び出たが、同原告の長男訴外亡矢賀文哉は逃げるのが一瞬遅れて倒壊した右原告宅の下に埋まり、事故後死体となつて発見された。

(3) 本件崩壊直前本件崩壊現場西方の新鹿地区で起つた土砂崩れによる生き埋め事故の被害者を病院へ収容、運搬するため、右崩壊直後ころ熊野市の消防署の救急車が本件崩壊現場道路を西方から東方へと通過し、被害者の収容、運搬終了後再び右道路を東方から西方へと通過して熊野市へ帰つた。

その後午後六時過ぎころにも乗用自動車が本件崩壊現場付近道路を通過していた。

(4) 又、崩壊後の道路の状況をみるに、本件崩壊現場道路の南側(海側)路体先端部分が幅約三九メートルにわたり、えぐり取られたようにきれいな弧を描いて崩れているが、道路路体の大部分は崩壊することなく残存していて、路面のアスフアルトも崩壊路体部分の上部も含めてほぼ原形どおりの状態で残存していた。右崩壊路体上部のアスフアルトは翌日危険防止のため割り落された。

(5) 本件崩壊現場道路南法面の空石積擁壁は、西側下段を残してほとんど崩壊し、右擁壁に使用された転石を含む本件崩壊路体の土石は、右法面の東側部分に沿つて帯状に流出し、矢賀部落にまで到達し、前記農道は、右空石積擁壁の下部付近の東方から西方へと屈曲する前記第二のヘアピンカーブを含む部分が右土石によつて埋没、崩壊した。埋没、崩壊を免れて残存した農道のコンクリート舗装面は、ひび割れしたもの、舗装面が破壊されてバランスや地山がみえているもの等の破損部分が多数ある。そして、右第二のヘアピンカーブ突当り部分(沢筋左岸)の洗掘、侵食の状態が顕著である。

3  本件事故発生原因

右に認定した1、2の各事実に、<証拠省略>を総合すれば、次の事実が認められる。

本件崩壊現場付近道路は北側の山の沢筋にあたつており、右は流域面積約五、二〇〇平方メートルの非活動河川であつて、本件崩壊時までの九月九日、一〇日の前記降雨量のため相当量の雨水が道路と山との間の空地(窪地)に集中、流入したうえ、さらに右道路付近に流入し、又、道路が東方から西方へとゆるやかに傾斜しているから、右道路の東側尾根筋の東側の沢に降つた雨もいつたんその沢筋にあたる道路部分に流下した後、本件道路付近に流入してきたものであること、本件道路付近では前記空地(窪地)部分が最も低地であり、同所の中央部から西端にかけては雑草が繁茂し、又、山側素掘側溝は既にその形体を失つていて側溝としての機能を果さなかつたため、道路全体としては東方から西方へゆるやかに傾斜しているにもかかわらず、右空地(窪地)部分に水が貯留し、路体盛土部に浸透して行つたこと、しかしその浸透量は極く一部であつて、さらに流入する雨水の増大するにつれて、同所からあふれ出た水は、右雑草や側溝の不備により西方への流出を著しく阻害されて、大部分は本件道路を横断し、道路南側(海側)に側溝がなかつたため、そのうちの多くはそのまま空石積擁壁上へと流出し、矢賀部藩方面へと流れ、さらに残りの大部分は農道部分に流れた後、農道に沿つて下方へ流れたり、農道法面から南側(海側)に落下し、前記路体中に浸透した水も路体を通過して空石積擁壁から放流されたものであること、右道路を横断して空石積擁壁の方へ流水した水(主力)および農道へと流入し農道に沿つて流れた水、そして盛土路体内に浸透して空石積擁壁から放流された水は、矢賀部落への約四五度ないし五一度の急斜面を流下し、前記農道の第二ヘアペン部分に集中し、同所突当り部分(沢筋左岸)を激しく洗掘、侵食したものであること、特に、崩壊した道路路体は南側(海側)先端部分のみであり、路体の大部分が崩壊することなく残存していて、路面のアスフアルトもほぼ完全な形で残存しており、右崩壊した路体の崩壊面をみるとえぐり取られたようにきれいな弧を描いていること、しかも、空石積擁壁の西側下段が残つていて、東側部分が崩壊しており、土石流は右法面の東側部分に沿つて帯状に流れていて、農道の右第二ヘアピン部分の突当り部分(沢筋左岸)が激しく洗掘、侵食され、同部分の農道は埋没、崩壊したこと、前記崩壊(崩落)した路体の状況からみて下部から引きずられるようにして崩壊したものと予想しうること、谷筋中間に本件農道のような突起物を設けることは特に豪雨時における斜面の安定上好ましくないとされていること。

以上の事実を認めることができ、これらの事実を総合して考察すると、本件道路の崩壊原因は、本件道路の北側部分の側溝が十分に機能していなかつたことおよび南側部分に側溝がなかつたことのため主として、路体を越えて谷筋を流下してきた水(主力)と農道上を流れた水が前記農道の第二ヘアピン部分に集中してこれが同所突当り部分(沢筋左岸)を激しく洗掘、侵食するうち、洗掘、侵食面が漸次上方へと発達し斜面の安定が破壊され、その付近の土砂が流出しだし、さらに、この流出によつて空石積擁壁の左岸部(東側部分)が法尻より逐次上方へと侵食され、ついに斜面の崩壊に至つたものと認めるのが相当である。

右見解に反する<証拠省略>はにわかに賛同することができない。

4  道路管理の瑕疵および因果関係

国家賠償法二条一項所定の「営造物の設置又は管理に瑕疵がある」とは、当該営造物が通常有すべき安全性を欠いていることをいうものと解すべきところ、道路が具有すべき安全性とは、単に当該道路における交通の安全の確保のみでなく、道路の崩壊等により当該道路の近くに居住する住民の生命、身体、財産を侵害しないよう、その完全性をも確保するものでなければならないというべきである。

本件においてこれらをみるに、前説示したとおり、本件崩壊現場付近の道路は、日本有数の多雨地域における急峻な山腹の小尾根間の谷筋を横断する形に造成されており、南側(海側)に長大で傾斜の急な法面を持ち、右法面には斜面の安定上問題のありうる前記農道があり、道路直下の狭い平地に前記矢賀部落が存在していたのであるから、道路管理者は、豪雨等の際の北側山間部から流入してくる雨水が、道路路体に浸透し、あるいは道路路面を横断して法面または前記農道へと越流し、前記農道を洗掘、侵食したり等することにより右道路法面の空石積擁壁の崩壊等を招くことのないよう、路体盛土を横断する排水管や盲暗渠(地下排水溝)等の施設を備えるか、または、少なくとも、右道路北側の前記空地(窪地)を雨水の貯留することのないように整地、除草等し、道路北側の素掘側溝が側溝としての機能を十分発揮しうるよう、側溝の幅、深さ、傾斜を適正な大きさに保つとともに、除草、清掃を十分にして右空地(窪地)や路面上の雨水を安全に西方へと排水しうるようにし、前記農道や空石積擁壁へと雨水を越流させず、同じく西方へと安全に排水しうるようにしておく必要があつたものというべきである。

しかるに、本件においては、前説示のとおり、道路北側の空地(窪地〕は低地となつていて雑草が繁茂し、雨水が貯留する状態であり、道路北側の素掘側溝は既に側溝の形体として定かでなく、雑草が繁茂し、側溝としての機能を失つていたのであつて、そのために雨水は、道路路面を横断して南側の空石積擁壁や農道へと越流する状態であり、さらには、右側溝等の不備のため、越流した雨水により農道の洗掘、侵食が起こり、空石積擁壁の崩壊、路体の崩壊が起つたものである。

以上の事実によれば、本件国道は、前記側溝の不備、不存在等の点において、道路が通常有すべき安全性を欠いていたもので、道路の設置又は管理に瑕疵があつたものというべきである。

なお、<証拠省略>はにわかに賛同することができない。

そして、前記説示したとおりの事故原因によつて本件道路路体の崩壊が起きたこと、本件空石積擁壁に使用されていた転石を含む本件崩壊路体の土石が帯状となつて流出し、矢賀部落に到達していること、そして前記事故発生時の状況として説示したところによれば、原告らの受けた前記被害と本件国道の崩壊との間には因果関係があるということができる。

5  不可抗力の主張

本件事故時の降雨が異常な集中豪雨であり、本件国道三一一号線沿いにがけ崩れ、土石流の発生等による多数の被害のあつたこと、本件降雨程度の降雨が本件事故以前にもあつたこと、前記農道が本件事故の約一年三か月前に開設されたこと、右のような農道を設置することは斜面の安定上好ましくないとされていることが認められ、加えて、側溝設備の不完全等があいまつて本件災害が発生したものと認むべきことは前説示のとおりであつて、本件事故が予測不可能な、不可抗力によるものであるとはいい難い。その他、本件事故が一般の科学技術水準に照らし予測不可能あるいは回避不可能であつたことを確認させるに足りる証拠はない。

よつて、被告らの不可抗力の主張は採用することができない。

6  結論

よつて、被告国は本件国道の設置、管理者であり、本件国道は被告国の営造物であるから、被告国は国家賠償法二条一項により、被告三重県は本件国道の管理費用の負担者であるから同法三条一項により、原告らに対し、その発生した損害を賠償すべき責任がある。

三  損害

1  原告矢賀止、同矢賀ふて子関係

(一)  訴外亡矢賀文哉の死亡による損害

(1) 右文哉の逸失利益

<証拠省略>によれば、訴外亡矢賀文哉は、原告矢賀止を父とし、同矢賀ふて子を母として昭和三五年二月二四日出生した同原告らの唯一の子供で、死亡当時一一才で小学校六年生に在学中の成績も中等以上の健康な男子であつたことが認められる。そして、第一三回(昭和四五年)完全生命表によれば、一一才の男子の平均余命は五九・八六年であり、政府の自動車損害賠償保障事業損害てん補基準を参酌して考えると同訴外人の就労可能年数は一八才から六三才までの四五年間と認めるのが相当であり、労働省官房労働統計調査部編の昭和四五年度賃金センサス賃金構造基本統計調査報告によると、産業計企業規模計の男子労働者の平均給与額はきまつて支給する現金給与額が月五万八、四〇〇円年間賞与その他の特別給与額が一七万一、一〇〇円であり、そのうち生活費として右収入の二分の一を要するとするのが相当であるから、右文哉の年間純収益は四三万五、九五〇円となり、右収益の一八才から六三才までの総額の死亡時における現在価額(年毎ホフマン式計算法により年五分の割合による中間利息を控除する。係数一九・三八七一)を求めると、その額は八四五万一、八〇六円(円未満切捨)となり、右金額から文哉が収入を得ることができるまでの七年間に要する養育費(年間平均金一二万円を相当とする。)の死亡時における現在価額(右ホフマン式計算法による。係数五・八七四三)を控除すると、その額は七七四万六、八九〇円となり、これが右文哉の得べかりし利益の喪失による損害額である。

(2) 慰謝料

文哉の死亡による精神的苦痛に対する慰謝料としては二〇〇万円が相当であり、原告矢賀止、同矢賀ふて子が唯一の子供である文哉を失つたため強い精神的苦痛を蒙つたことは明らかであり、右原告両名の苦痛に対する慰謝料としては各五〇万円が相当である。

(3) 葬儀費用

原告本人矢賀止尋問の結果によれば、右文哉の葬儀は区葬とされ、費用は区で支出したが、なおその父である原告矢賀止は右葬儀に関して接待費等相当の費用を支出したことが認められ、右事実に照らし、原告矢賀止の本件事故と因果関係のある葬儀費用としては一〇万円をもつて相当とする。

(二)  家屋等の倒壊、損壊による損害

(1) 家屋

<証拠省略>によれば、原告矢賀止は、熊野市波田須町字矢賀里廻り四八二番地上に木造瓦葺平家建床面積四四・〇六平方メートルの居宅を昭和二九年一二月に新築所有して、これに居住していたが、右家屋は、本件事故によつて倒壊し、使用不能になつたところ、右は、台風等に対する防護上一般市街地の家屋よりも堅固に出来ており、右程度の家屋を新築する場合には、本件事故時の昭和四六年九月当時で三・三平方メートル当り一三万円ないし一五万円であることが認められる。

ところで、住家のように二代、三代とわたつて半永久的に使用されることを前提とする物件が滅失した場合、その交換価値によつてはその失われた物と同等の物を取得することは殆んど不可能といつてよく、むしろ問題はその使用価値にあることを考えると、これを新築するに要する費用が本件事故によつて生じた相当因果関係の範囲内の損害と解すべきであり、右認定の事実によると、右新築程度の費用としては三・三平方メートル当り一四万円と解するのが相当であり、そうすると、右家屋の前記費用は一八六万九、二一二円(円未満切捨)ということになり、原告矢賀止は右家屋の倒壊により右同額の損害を被つたものといわなければならない。

(2) 家財道具類

<証拠省略>によれば、本件事故によつて右家屋内に置いてあつた原告矢賀止所有の別紙家財道具類目録<省略>(矢賀止の分)記載の家財道具類はすべて損壊され、使用不能となつたこと、同目録に付された価額は自ら評価したものであり、購入年月日も不明のものがあり、しかも中には現に使用中のものが存在することが認められ、右認定の事実に照らし、右道具類の滅失当時の時価は右評価類の合計二四三万一、五〇〇円の三分の一に当る八一万〇、五〇〇円と認めるのが相当であり、同原告は右同額の損害を被つたものというべきである。

(3) 財産喪失による慰謝料

前記認定のとおり、原告矢賀止は、昭和二九年以来住みなれた前記家屋を喪失したのみならず、家財道具類の一切を喪失したものであつて、右は生活の基礎を根底から奪われたものというべく、<証拠省略>によれば、同原告は日雇仕事をし、学校住宅を借りて生活していることが認められ、以上によれば、同原告の財産喪失による精神的苦痛は大きいものというべきで、これに対する慰謝料としては二〇万円を相当とする。

(三)  相続関係と右原告らの損害額

以上によれば、文哉は九七四万六、八九〇円の損害を被り、各被告らに対し右同額の損害賠償請求権を有するものというべきところ、原告矢賀止、同矢賀ふて子はいずれも文哉の両親であつてその相続人であるから、その相続分(二分の一)に従つて各金四八七万三、四四五円の請求権を承継取得したものというべく、従つて原告矢賀止の損害額合計は八三五万三、一五七円、原告矢賀ふて子の損害額合計は五三七万三、四四五円となる。

(四)  弁護士費用

原告矢賀止、同矢賀ふて子が本件崩壊事故に基づく損害賠償請求訴訟の追行を原告ら訴訟代理人に委任したことは記録上明らかであり、この種事件につきその責に任ずべき者が損害賠償の請求に対し任意にこれが支払をしないときは、通常、弁護士に訴訟を委任しなければ権利の実現をはかることは困難であるから、これに要する弁護士費用は事故と因果関係に立つ範囲内において右原告らの被つた損害と解すべきところ、本件訴訟の難易、経過、前記認容額等を考慮すると、右損害額は原告矢賀止については八三万円、原告矢賀ふて子については五三万円と認めるのが相当である。

2  原告矢賀つるゑ、同矢賀弘次および同矢賀政利関係

(一)  訴外亡矢賀廣治、同矢賀あや子、同矢賀あき子の死亡による損害

(1) 右各訴外人の逸失利益

<証拠省略>によれば、訴外亡矢賀廣治は、大正八年一二月五日出生した死亡当時五一才の健康な男子で、昭和三四年以来訴外久保幹夫の経営する土建業久保組の石工として働き、死亡当時には同組の責任者をしていて、日給五、〇〇〇円で一か月二五日位稼働しており、平均月収額一二万五、〇〇〇円を得ていたこと、訴外亡矢賀あや子は、昭和二年一一月二五日に出生し、昭和二三年に右廣治と結婚して原告矢賀つるゑほか三名の子女をもうけ、一家の主婦として家事に従事するほか、日雇いをもしており、死亡当時四三才の健康な女子であつたこと、訴外亡矢賀あき子は、昭和二八年九月二七日に出生した死亡当時一七才の健康な女子で高等学校二年生に在学中の成績も中等以上の健康な女子で、いずれは右高等学校を卒業し、就職する予定であつたことが認められる。

そして、前記生命表によれば、五一才の男子の平均余命は二三・〇四年、四三才の女子の平均余命は三四・二一年、一七才の女子の平均余命は五九・〇三年であり、前記文哉についてと同様の基準を参酌して考えると、廣治の就労可能数は一二年と認めるのが相当であつて、その間右に認定の程度の月間収入をあげ得たはずであり、その内生活費として右収入の三割を要するとするのが相当であるから、右廣治の年間純収益は一〇五万円となり、これの一二年間の総額の死亡時における現在価額(年毎ホフマン式計算法により年五分の割合による中間利息を控除する。係数九・二一五一)を求めると、その額は九六七万五、八五五円となり、これが廣治の得べかりし利益の喪失による損害額ということになり、右あや子の就労可能年数は前掲基準を参酌して考えると二〇年と認めるのが相当であり、前記家事等の労働に従事していたことに照らして、同訴外人は女子労働者の平均賃金をあげえたものというべく、前掲昭和四五年度賃金センサス賃金構造基本統計調査報告によると、産業計企業規模計の女子労働者の平均給与額はきまつて支給する現金給与額が月三万五、二〇〇円、年間賞与その他の特別給与が九万〇、一〇〇円であり、そのうち生活費として右収入の二分の一を要するとするのが相当であるから、あや子の年間収益は二五万六、二五〇円となり、右二〇年間の総額の死亡時における現在価額(年毎ホフマン式計算法により年五分の割合による中間利息を控除する。係数一三・六一六〇)を求めると、その額は三四八万九、一〇〇円となり、これが右あや子の得べかりし利益の喪失による損害額ということになり、右あや子の就労可能年数は前記基準を参酌して考えると一八才から六三才までの四五年間と認めるのが相当であり、しかして、前記賃金センサス賃金構造基本統計調査報告によると、産業計企業規模計の高校卒以上の女子労働者の平均給与額はきまつて支給する現金給与額が月三万七、三〇〇円、年間賞与その他の特別給与が一〇万二、四〇〇円であり、そのうち生活費として右収入の二分の一を要するものとするのが相当であるから、あき子の年間収益は二七万五、〇〇〇円となり、一八才から六三才までの総額の死亡時における現在価額(年毎ホフマン式計算法により年五分の割合による中間利息を控除する。係数二二・五八一四)は六二〇万九、八八五円となり、そのうちあき子が収入を得ることができるまでの一年間に要する養育費(年間二一万円を相当とする。)の死亡時における現在価額(ホフマン式計算法による。係数〇・九五二三)を控除すると六〇九万五、六〇九円となり、これがあき子の得べかりし利益の喪失による損害額ということになる。

(2) 慰謝料

前記認定事実によれば、廣治は一家の支柱であり、あや子はその妻であり、あき子は右両名の子であり、しかも原告矢賀つるゑ、同矢賀弘次、同矢賀政利は瞬時にして両親と兄妹の一人を失い、寄辺のない孤児となつたのであり、同原告らがこれによつて強い精神的苦痛を蒙つたことは明らかであり、諸般の事情を考慮すれば、廣治の慰謝料は三五〇万円、あや子のそれは三〇〇万円、あき子のそれは二五〇万円、右原告ら三名のそれは各五〇万円とするのが相当である。

(3) 葬儀費用

<証拠省略>によれば、右廣治、あや子、あき子の葬儀は区葬とされ、費用は区で支出したが、なお原告矢賀つるゑは右葬儀に関し接待費用に相当費用を支出したことが認められ、右認定事実によれば、本件事故と因果関係のある右損害は一〇万円と認めるのが相当である。

(二)  家屋等の倒壊、喪失による損害

(1) 家屋

<証拠省略>によれば、前記矢賀廣治は、熊野市波田須町字矢賀里廻り四三四番地上に木造瓦葺平家建床面積四四・七二平方メートルの居宅を昭和二四年に新築して所有、居住していたが、右家屋は本件事故によつて倒壊し、使用不能になつたところ、右は少なくとも普通程度以上の建物であつて、右程度の家屋を新築する場合には、昭和四六年九月当時で三`三平方メートル当り一三万ないし一五万円であることが認められる。

右認定の事実に照らして、本件家屋の当時の新築費用は三・三平方メートル当り一四万円とみるのが相当であり、そうすると、右家屋の該費用は一八九万七、二一二円(円未満切捨)ということになり、右損害額につき前記矢賀止の項において説示したのと同じ趣旨において、原告矢賀廣治は右家屋の倒壊により右同額の損害を被つたものといわなければならない。

(2) 家財道具類

<証拠省略>によれば、本件事故によつて右家屋内に置いてあつた右矢賀廣治所有の別紙家財道具類目録<省略>(矢賀廣治の分〕記載の家財道具類はすべて損壊され、使用不能となつたこと、右物品目録は遺族らが記憶に基づいて作成したもので、その価格も主として矢資榛一の妻が時価相当額を見積つたものであることが認められ、右認定の事実に照らして、右道具類の滅失当時の時価は右評価額の合計一六〇万三、五〇〇円の三分の一に当る五三万四、五〇〇円と認めるべく、よつて同訴外人は右同額の損害を被つたものというべきである。

(三)  相続関係と右原告らの損害額

以上によれば、被告ら両名に対し矢賀廣治は各一、五六〇万一、七一二円(同人の逸失利益については主張の九六七万円の限度において算定)の、矢賀あや子は各五一一万円(同人の逸失利益については主張の二一一万円の限度において算定)の、矢賀あき子は七四五万円(同人の逸失利益については主張の四九五万円の限度において算定)の損害賠償請求権を有するものというべきところ、原告矢賀つるゑ、同矢賀弘次、同矢賀政利はいずれも矢貿廣治、矢賀あや子の子であり、矢賀あや子の兄妹であるから、同訴外人らの死亡による相続により同訴外人らの右請求権をその三分の一である九三八万七、二三七円宛(円未満切捨)の割合で承継したことにより、右金員に右各原告の損害額を加えると原告つるゑの損害額は九九八万七、二三七円、原告弘次、同政利のそれは各九八八万七、二三七円宛となる。

(四)  弁護士費用

原告矢賀つるゑ、同矢賀弘次、同矢賀政利が本件崩壊事故に基づく損害賠償請求訴訟の追行を原告ら訴訟代理人に委任したことは記録上明らかであり、右弁護士費用を右原告らの被つた損害として請求しうべきことは前説示のとおりであつて、本件訴訟の難易、経過、前記認容額等を考慮すると、右損害額は原告つるゑについては九九万円、原告弘次、同政利のそれは各九八万円と認めるのが相当である。

3  原告矢賀幸および同矢賀みつ子関係

(一)  原告矢賀幸の損害

(1) 家屋の倒壊、喪失による損害

<証拠省略>によれば、原告矢賀幸は、熊野市波田須町四四八番地上に木造瓦葺平家建居宅床面積五七・八五平方メートル、木造瓦葺二階建物置床面積一階一九・八三平方メートル二階一九・八三平方メートル、木造瓦葺平家建便所兼牛舎床面積一四・八七平方メートルの家屋(右原告の父が建築し、原告の兄が所有していたのを昭和一九年同人の死亡により原告が家督相続し、居宅については昭和三八年原告が増改築を施したもの)を所有、居住していたが、右家屋は本件事故によつて倒壊し、使用不能になつたところ、前記矢賀止所有の家屋について説示したと同じく台風等に対する防護上一般市街地の家屋よりも堅固にできており、右居宅の増改築の内容は、三畳の子供部屋を増築し、台所を一坪半広げて約四坪とし、母屋の裏側を全部改装し、家屋内を改装したもので、右に使用した材木は右原告の山から採つたものを用い、そのほかに約金六〇万円を要したというものであり、右程度の居宅を新築する場合には、昭和四六年九月当時で三・三平万メートル当り二二万ないし一五万円かかることが認められる。

右認定事実に照らして、右家屋中居宅の新築費用は三・三平方メートル当り一四万円、その余の建物の新築費用は三・三平方メートル当り七万円とみるのが相当であり、そうすると、右居宅の費用は二四五万四、二四二円(円未満切捨)、その余の建物の費用は一一五万六、六九六円(円未満切捨)ということになり、右損害額につき前記原告矢賀止につき説示したのと同趣旨において、原告矢賀幸は右家屋の倒壊により右同額の損害を被つたものといわなければならない。

(2) 家財道具類の損壊、喪失による損害

<証拠省略>によれば、本件事故によつて右家屋内に置いてあつた原告矢賀幸所有の別紙家財道具類目録<省略>(矢賀幸の分)記載の家財道具類は、すべて損壊され、使用不能となつたこと、右各物品の価額は買つた時の価額をもとに原告幸の妻らの評価したもので、現に使用中のものが大部分であることが認められ、右事実に照らして、右道具類の滅失当時の時価は右評価額三四六万五、八〇〇円の三分の一にあたる一一五万五、二六六円と認めるのが相当である。

よつて、原告矢賀幸は右同額の損害を被つたものというべきである。

(3) 財産喪失による慰謝料

前認定のとおり、原告矢賀幸は、昭和一九年以前から住みなれた前記家屋を喪失したのみならず、家財道具類のいつさいを喪失したのであつて、右は生活の基礎を根底から奪われたものというべく、原告本人矢賀幸尋問の結果によれば、同原告は主として出稼ぎ仕事をし、本件事故後は、学校住宅を借りて生活していることが認められ、以上によれば、同原告の財産喪失による精神的苦痛は大きいものというべきで、これを慰謝するには金二〇万円をもつて相当とする。

(4) 弁護士費用

原告幸が本件崩壊事故に基づく損害賠償請求訴訟の追行を原告ら訴訟代理人に委任したことは記録上明らかであり、右弁護士費用を右原告の被つた損害として請求しうべきことは前説示のとおりであつて、本件訴訟の難易経過、前記認容額等を考慮すると、右損害額は四九万円と認めるのが相当である。

(二)  原告矢賀みつ子の損害

(1) 負傷による慰謝料

<証拠省略>によれば、原告矢賀みつ子は、前記矢賀幸所有の家屋に居住していて本件事故に逢い、頭部外傷I型、全身打撲の全治四か月間の傷害を受け、昭和四六年九月一〇日から同年一〇月一五日まで三重県南牟婁郡御浜町の南牟婁民生病院に入院して治療を受け、頭部外傷後遺症があつて、熊野市所在の熊野病院に昭和四七年五月一日から通院治療を受け、昭和四九年六月一七日現在においてなお治療を要するものであり、現在、軽い農作業等をすると足から腰が痛む状況であることが認められ、右事実によれば、同原告がこれによつて精神的苦痛を受けたことは明らかであり、諸般の事情を考慮すれば、右苦痛を慰謝するには金八〇万円をもつて相当とする。

(2) 弁護士費用

原告矢賀みつ子が本件崩壊事故に基づく損害賠償請求訴訟の追行を原告ら代理人に委任したことは記録上明らかであり、前記説示したとおり諸般の事情を考慮すると同原告の被つた右損害は八万円とするのが相当である。

4  原告森下憲夫および原告森下徳太郎関係

(一)  原告森下憲夫の損害

(1) 家屋の倒壊、喪失による損害

<証拠省略>弁論の全趣旨を総合すれば、原告森下憲夫は、熊野市波田須町字矢賀里廻り四四一番地上に木造瓦葺平家建居宅床面積六一・一九平方メートル、木造瓦葺平家建浴場兼物置床面積二五・四五平方メートルを所有して従前からこれに居住していたものであるところ、本件事故によつて右建物は倒壊し、使用不能になつたところ、前記矢賀止所有の家屋について説示したと同様、堅固にできている建物であり、右程度の居宅を新築する場合には、昭和四六年九月当時で三・三平方メートル当り一三万ないし一五万円であることが認められ、そして、前記矢賀止の項で説示したと同じく、右建物の内居宅部分についての新築の費用としては三・三平方メートル当り一四万円、その余の浴場兼物置部分についてのそれは、建物の性質上その半額の七万円と認めるのが相当であり、そうすると、右家屋の前記費用は三一三万五、七八七円(円未満切捨)ということになり、原告森下憲夫は右家屋の倒壊により右同額の損害を被つたものといわなければならない。

(2) 家屋倒壊による慰謝料

前認定のとおり、原告森下憲夫は前記建物に以前から居住していたところ、これを本件事故によつて一瞬のうちに奪われたのであつて、右によれば、同原告の右家屋を喪失したことによる精神的苦痛は大きいものというべく、これを慰謝するには金一〇万円をもつて相当とする。

(3) 弁護士費用

原告森下憲夫が本件崩壊事故に基づく損害賠償請求訴訟の追行を原告ら訴訟代理人に委任したことは記録上明らかであり、右弁護士費用を右原告らの被つた損害として請求しうるべきことは前説示のとおりであつて、本件訴訟の難易、経過、前記認容額等を考慮すると、右損害額は三二万円と認めるのが相当である。

(二)  原告森下徳太郎の損害

(1) 家財道具類喪失による損害

<証拠省略>によれば、本件事故によつて前記原告森下憲夫の家屋内に置いてあつた原告森下徳太郎所有の別紙家財道具類目録<省略>(森下徳太郎の分)記載の家財道具類は、すべて損壊され、使用不能となつたこと、右各物品の価額は当時の新品価格としてまたは中古品の価額として評価したものであることが認められる。

しかして、右認定の道具類は物品の性質上その殆んどが現に使用中のものであることが推認せられ、そうだとすると、右物品の事故当時の時価はその評価額一八七万九、九〇〇円の三分の一にあたる六二万六、六三三円(円未満切捨)と認めるのが相当であり、よつて、原告森下徳太郎は同額の損害を被つたものというべきである。

(2) 家財道具喪失による慰謝料

前認定事実に照らして、原告森下徳太郎が右家財道具類のいつさいの喪失によつて精神的苦痛を受けたことは明らかであり、これを慰謝するには金五万円をもつて相当とする。

(3) 弁護士費用

原告森下徳太郎が右崩壊事故に基づく損害賠償請求訴訟の追行を原告ら訴訟代理人に委任たことは記録上明らかであり、右弁護士費用を右原告らの被つた損害として請求しうべきことは前説示のとおりであつて、本件訴訟の難易、経過、前記認容額等を考慮すると、右損害額は六万円と認めるのが相当である。

5  原告矢賀重治関係

(一)  家屋倒壊、喪失による損害

<証拠省略>によれば、原告矢賀重治は、熊野市波田須町字矢賀里廻り四三三番地上に木造瓦葺二階建居宅床面積一階一九・八三平方メートル、二階一九・八三平方メートルの家屋を昭和三八年一二月に約一二〇万円で新築して所有して従前からこれに居住していたが、右建物は本件事故によつて倒壊し、使用不能になつたもので、一階を物置兼倉庫、二階を住居に使用しているが、ひのき材を多数用い、上壁の上にカラートタンを使つた瓦葺の家屋で前説示した各原告の家屋、居宅と同程度のものであり、右程度の家屋を新築する場合には昭和四六年九月当時で三・三平方メートル当り一三万ないし一五万円かかることが認められ、そして、前記矢賀止の項で説示したと同じく、右建物のうち居宅部分である二階についての新築の費用としては三・三平方メートル当り一四万円、物置兼倉庫部分である一階についてのそれは、建物の性質上その半額の七万円と認めるのが相当であり、そうすると、右家屋の前記費用は一二六万一、九〇九円(円未満切捨)ということになり、原告矢賀重治は右家屋の倒壊により右同額の損害を被つたものといわなければならない。

(二)  家財道具類の喪失による損害

<証拠省略>によれば、本件事故によつて、右家庭に置いてあつた原告矢賀重治所有の別紙家財道具類目録<省略>(矢賀重治の分)記載の家財道具類は、すべて損壊され、使用不能となつたこと、右各物品の価額は当時の新品価格としてまたは中古晶の価格として評価したものであることが認められる。

しかして、右認定の道具類は物品の性質上その殆んどが現に使用中のものであることが推認せられ、そうだとすると、右物品の事故当時の時価はその評価額七〇万五、七三〇円の三分の一にあたる二三万五、二四三円(円未満切捨)と認めるのが相当であり、よつて原告矢賀重治は同額の損害を被つたものというべきである。

(三)  財産喪失による慰謝料

右家屋の倒壊、家財道具類の損壊したことは前認定のとおりであり、原告矢賀重治が右財産喪失により精神的苦痛を受けたことは明らかであり、これを慰謝するには金一〇万円をもつて相当とする。

(四)  弁護士費用

原告矢賀重治が右崩壊事故に基づく損害賠償請求訴訟の追行を原告ら訴訟代理人に委任したことは記録上明らかであり、右弁護士費用を右原告らの被つた損害として請求しうべきことは前説示のとおりであつて、本件訴訟の難易、経過、前記認容額等を考慮すると、右損害額は一五万円と認めるのが相当である。

三  結語

よつて、原告らの被告らに対する本訴請求は、原告矢賀止が金九一八万三、一五七円、原告矢賀ふて子が金五九〇万三、四四五円、原告矢賀つるゑが金一、〇九七万七、二三七円、原告矢賀弘次、同矢賀政利が各金一、〇八六万七、二三七円、原告矢賀幸が金五四五万六、二〇四円、原告矢賀みつ子が金八八万円、原告森下憲夫が金三五五万五、七八七円、原告森下徳太郎が金七三万六、六三三円、原告矢賀重治が金一七四万七、一五二円の各支払を求める限度で理由があるから、右限度で原告らの請求を認容し、その容の請求は理由がないので矢当としてこれを棄却し、訴訟費用の負担につき民事訴訟法八九条、九二条、九三条、仮執行及び仮執行免脱の宣言につき同法一九六条をそれぞれ適用し、主文のとおり判決する。

(裁判官 白川芳澄 林輝 若林諒)

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